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歴史の記事一覧

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掛川城・由比ツアー 

 先々週に娘を横浜市歴史博物館に連れて行きました。昔の道具調べ、ということで行ったのですが、博物館が思った以上に楽しかったようなので、先週は江戸東京博物館に行ったわけです。
 次は本物見に行こう、ということで、今度はお城に行こうということになりました。

 とはいえ、私のようなマニアックな趣味ではないので、最初はやっぱり天守閣があるところにしよう、と。となると関東ではまともな天守閣があるのが小田原城か大多喜城ぐらい。でも近くて行きやすい小田原城は大規模改修中で天守閣には入れません。大多喜城は行ったことあるし、船で行くと結構大変。

 大規模寒波の予報が出て、高速が空いているのでは? ということで思い切って静岡県の掛川城に行くことにしました。我が家は東名に入りやすいし、昨夏の社会科見学ツアーで雨で掛川城見学が中止になったので、ちょうどいいかなって。

 というわけで片道約200キロ、掛川にでかけました。
 新東名経由で2時間余り、掛川城の大手門前の駐車場にクルマを停めて、いよいよおねえちゃん初のお城探訪です。

 掛川城が史上に登場するのは15世紀、守護大名今川義忠(義元の祖父)が老臣朝比奈泰煕に築かせたといいます。掛川は遠江国東部、周辺は牧之原台地が広がっていて、駿河と遠江を分断しています。
 駿遠を東西に結ぶには、台地全体を南に迂回して海岸線を御前崎経由で抜けるか、台地の中でも比較的低い土地を縫って、菊川から山越えで掛川に至るルートになります。
 御前崎ルートはかなり遠回りになるので、掛川は東海道の最短ルートを占める枢要の地ということになります。
 浜松や磐田といった天竜川による沖積平野から東進してくると、掛川は袋小路のようになっています。背後には牧之原の複雑な地形があり、金谷・島田を経て駿河の平野部に入ります。で食い止めなければ、金谷・島田を経て 

 まず復元された大手門。
20160123 掛川・由比 1
 復元されたものです。背後に逆川が流れていて、前述のとおり惣堀となっています。門をくぐると番所があります。全国でも珍しい現存の番所で幕末の建築です。

 大手門から逆川を渡ると、おそらく二之門があったはず。門そのものは移築されて袋井市の油山寺にありますが、これがこの位置でいいのかな?

 現在、城址の入口は南側にあります。本丸と三ノ丸の間から南に出て、そこから逆川を渡ると掛川駅に向かった大通りができています。町の目抜き通りになっていますが、実際の掛川城は東側に向けて縄張りされています。
 大手から渡って少し北に入り、現在の市役所の南側で東に折れると、三ノ丸の入り口。現在三ノ丸は広場になっています。

 私は逆川を渡ってから川沿いに西に向かい、城址入口に向かいました。
 掛川駅からまっすぐ北上するとこの入口に至り、復元された四足門や現存する二ノ丸御殿に行けますから、公園としては合理的です。しかし、城址なんですから本来の城の構造を考えた復元ということも少し考えて欲しいですね。曲輪ごとの関連性が見えないのは城址としては致命的なんですよ。

 「現在の」正面入口から登ると、すぐに復元された門があります。
20160123 掛川・由比 2
 この四足門は三ノ丸から二ノ丸の一隅を経て本丸にアクセスする位置にあります。二ノ丸と三ノ丸が低い位置で並び、本丸が高くなっているのが掛川城の特徴です。

 四足門をくぐると二ノ丸から伸びる削平地があり、さらに登ると、本丸に入ります。
 本丸の入り口は石垣はあるものの城門は復元されていません。ただ向かって左側に三ノ丸から移築された太鼓櫓があります。
20160123 掛川・由比 3
 太鼓櫓は移築ではありますが、建物自体は近世のものです。掛川城は櫓がこれしかないので、貴重ですね。城の南側から遠望した時に、天守閣の手前にこの櫓が見えて、なかなか重々しい感じになっています。

 本丸に入ると、いよいよ天守閣がよく見えます。
20160123 掛川・由比 4
 見ての通り、本丸から見ても天守はかなり高い位置にあり、実質的にこの本丸が二ノ丸のような位置づけになるのでしょう。
 また、土の斜面が目立ちます。近世の城ですが、本来丘陵を生かした城郭ですから、天守曲輪も石垣で組んでいません。要所にしか石垣は使っていないようです。さすがに天守台は石垣です。

20160123 掛川・由比 5
 天守へは斜面の縁の屈曲した坂道を登ります。二ノ丸側は土塀で防御したでしょうから、それは復元されています。

20160123 掛川・由比 6
 登りきると天守曲輪です。門は発掘では痕跡がなかったそうですが、図面などにはあるようです。
 天守閣の原型は近世初期の城主、山内一豊が整備したものです。一豊は掛川城主として関ヶ原の戦いを迎えました。家康が石田三成の挙兵を知って西上を決断したいわゆる小山評定で、一豊は真っ先に掛川城の提供を申し出、従軍諸大名が家康に同心する決断を促しました。家康は戦後、これを高く評価して一豊を土佐一国の太守に抜擢することになります。

 天守は3層の層塔型。一豊が土佐に移ったのち、地震で倒壊し、再建されたものの安政地震で再び倒壊しました。現天守は1994年、市民らの寄付などで、戦後初の木造で復元されたもので、一豊が築いた高知城を参考にしています。
 形式としては非常に単純ですが、花頭窓や破風などで美しく見せています。
 また、木造によりできるだけ忠実に再現しているので、階段などもちゃんと急で、娘は驚いていました。

20160123 掛川・由比 7
 天守から東側、二ノ丸・三ノ丸を望みます。二ノ丸には幕末期の遺構ですが、珍しく御殿が現存しています。

20160123 掛川・由比 9
 その二ノ丸御殿です。ここが実質的な政庁に当たります。城というと天守閣のイメージが強いのですが、近世は天守閣は象徴的な建物で、実際に城主がそこで政務をとることは、まずありませんでした。
 となれば、近世城郭を見る上で、この御殿も非常に重要です。これが現存しているのは、実に貴重な資料ということになります。
 それだけに修復工事中だったのは残念でした。
 ついでにいえば、流石にとても寒かった。板張りの廊下を歩いていると、足が冷える冷える。暖房も大したことがない江戸時代に、ここで仕事をするのは大変だったことでしょう。
 暖房が効いた家でぬくぬくしている娘も、昔の生活の大変さがよく理解できたようです。

 掛川城は城の構造がわかりやすく、初心者のお城見物には非常に適しています。初のお城見物になった娘にピッタリでした。
 次は松本城あたりかな~。あとは地元で茅ヶ崎城や小机城なんかもいかないとね。


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八王子城跡探訪記 

 正月というのに穏やかで暖かい日が続いています。こんな天気ならバイク乗るの苦じゃないからいいですね。
 というわけで向かったのは八王子城跡です。関東屈指の山城で、近世期は廃城になっていましたから保存状態がいい、お城ファンにも人気の城です。発掘調査も行なわれており、往時の様子がよく分かります。
 八王子という地名のもとでもありますが、そうはいっても場所が八王子というより高尾です。
20160104 24

 交通不便ということで、簡単に行けないのでつい保留していたお城でした。やっと行ける!
 ちなみに山城探訪は冬が一番です(雪さえなければ、ですが)。熱中症の心配もないし、虫がいないし、草は枯れて足元が見やすいし、落葉していますから見晴らしもいい。
 特にこの日は暖かで風もありませんでしたから、最高のコンディションでした。

 お城に登る前に、まずガイダンス施設へ。コンパクトですが綺麗な施設で、山城見学の拠点には絶好です。正月と言ってもちゃんと開いていましたので、見学してパンフレットや地図などを頂き、ついでにトイレも済ませて出発です。
20160104 1

 まずは城主に敬意を表すべく、北条氏照墓所へ向かいます。城に向かう道沿いの集落は、八王子城の経済を支えた「根小屋」という地区です。その根小屋に面した丘の上に、氏照の供養塔があります。氏照は秀吉の小田原攻めの時は小田原城に詰めており、落城後は兄の氏政とともに切腹、小田原城下に葬られました。ここは家臣中山勘解由の子孫、信治が建てた供養塔で、家臣の墓などもあります。
20160104 2

 北条氏照は、氏康の次男です。文武に秀で、武蔵攻略の陣頭指揮を取りました。はじめ大石氏に養子に入り、大石源三を名乗ります。武蔵滝山城を拠点に、越後上杉氏や陸奥の諸大名などとの取次として北条氏の東方戦略の中心を担いました。
 武田信玄に三増峠の戦いで大敗するなど失策も見られますが、拡大した北条氏の領域をよくまとめました。
 この供養塔を建てた中山信治は、留守の氏照に代わって八王子城を守った重臣の中山勘解由家範の孫です。勘解由は剛勇で知られ、前田利家・上杉景勝による城攻めに対して奮戦し討ち死に。その武勇を喧伝され、子の信吉は家康に召し抱えられ、後に水戸藩の家老となりました。

 氏照が八王子城に移ったのは天正15年(1587)で、3年後の秀吉の来攻時は未完成だったといいます。近世期でありながら、中世的な山城であることは、この城が本来防衛を主題に築かれたものであることを感じさせます。
 中世山城の完成形とも言える構造ですが、近世的な築城技術も応用しており、非常に興味深いですね。


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平成28年元日 明けましておめでとうございます 

 平成28年、2016年になりました。
 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 さて、昨日もアップしたとおり、石川県白山市に帰省しています。寒さも厳しくなく、穏やかに晴れた元日になりました。
 初詣はどこ行こう?ということで、前から行ってみたかった蓮如上人の墓にでも詣でることにしました。

 蓮如(1415~1499)は親鸞直系の本願寺8世、衰退していた本願寺を再興し、現在の真宗の繁栄の基を築きました。北陸教化を目的に越前吉崎に下向して布教に努めますが、その折に加賀にも真宗の影響が及び、後に加賀の一向一揆が起こる素地となりました。
 その蓮如は文明3年(1471)12月上旬から翌年の2月2日まで加賀善性寺に逗留したといいます。現在の金沢市四十万町にある善性寺は応永35年(1427)に開創とされますが、始め天台寺院だったものがこの当時の住持法慶坊により真宗となったようです。
 
 こちらがその善性寺。
2106元日 蓮如上人参り 1
 立派な方丈で、軒深く屋根の勾配高く、組手もきれいです。近世末期の建物と想像しますが、案内など何もなかったのでわかりません。裏側は新建材などで改築されており、残念です。この境内に蓮如の尊像がありました。

 さて肝心の墓所ですが、この寺域にはなく道を挟んで東側にある山にあります。配水場があってその裏のスペースに車をとめ、山道を登ることになります。
2106元日 蓮如上人参り 3
 こちらが山道の入り口です。

2106元日 蓮如上人参り 4
 まぁ、山城に登るのに比べれば大したことないのですが、今回は家族全員www まぁ上2人はいいんですが、1歳半ってのがおりまして。しょうがないんで抱っこで登ることになりました。10キロあるんだけど…。

2106元日 蓮如上人参り 5
 地元の方が整備しているようで、登りやすいのですが、昨日の雨と落ち葉で滑りやすくなっているのが辛かった。いや、重ねて言いますが10キロ抱えてなければ大したことないですよ。チビめ、ヘラヘラしてやがんの!(当たり前か)

 15分ほど登ると、ようやく目的地の蓮如上人墓所にたどり着きます。
2106元日 蓮如上人参り 9
 今登ってきた西北斜面に向かって墓域が取られ、雄大な景色を眺められる場所に墓石が置かれています。言い伝えでは、蓮如はこの景観を愛し、霊寶山と名づけて「われ死なば、この山頂に葬れ」と言い残したそうです。真骨一葉をここに納むといいます。
 写真右には、おそらく随従してここに登ったと思われる善性寺の法慶坊の墓所もあります。死してなお扈従することに、法慶坊の霊も喜んでいることでしょう。

2106元日 蓮如上人参り 6
 こちらが上人の墓所です。加賀一円を望みます。

 蓮如は優れた宗教者でありました。彼の残した様々な消息(手紙)は「御文章」と言われ、教義をわかりやすく述べたものとして口承され、今も真宗では法事などで僧侶によって声明にのぼります。
 私の母方の家は真宗ですが、祖父が亡くなった時、「御文章」の中でも有名な「白骨の御文」を直接聞くことができました。
「朝ニハ紅顔アリテ夕ニハ白骨トナレル身ナリ 」という一節は、戦乱の時代を生きた蓮如の無常観を痛烈に表しています。

 同時に、蓮如は組織づくりに優れた差異を持っていました。村々に末寺を置き、それぞれの横の連帯を「講」として育て、それを掌握することで教勢を一気に高めました。
 加賀一向一揆が守護の富樫氏を逐い、100年にわたって加賀を支配したのも、背景に蓮如が築いた組織がありました。
 信長は本願寺と長く戦い、なかなか慴伏させられませんでしたし、家康も三河一向一揆に苦しみました。
 家康はそれを思って、本願寺を東西に分裂させ、勢力を弱めました。それが現在の西本願寺・東本願寺です。末寺はそれぞれ11000、9000ほどで、単独では12000寺を数える曹洞宗にかないませんが、合わせればダントツの数なのです。その基礎を築いたのが蓮如というわけです。
 一般にはさほど名が知られている人物ではありませんが、史上の偉人であることは疑いようもないでしょう。

 さて、墓所の背後には見晴らし台が設えられています。
2106元日 蓮如上人参り 7
 冬は木々の葉が落ちているうえに、天気が良かったので見晴らし最高!

2106元日 蓮如上人参り 8
 目の前が野々市、その向こうは松任市街で、ずっと奥には日本海が広がっています。蓮如がここに眠りたいと言った理由がよく分かります。

 歴史マニアやってると、普通の人からすればなんでそんなとこ行くの?というとこによく行きます。蓮如の墓所などに積極的に行きたいと思う人はなかなかいないと思います。私はそういうところも労を惜しまず足を運びます。そうして歴史と向き合うことに無上の喜びを感じるのですが、そのご褒美とでも言えるでしょうか、こんな素晴らしい景色などに出会えることが良くあります。
 前に紹介した平林城などもそうですが、やっぱり行ってよかったな~と、思うことがほとんどです。
 マニアがやめられないわけです。チビどもも蓮如など知らないのですが、この景色は目に焼き付いたことでしょう。


東北お城巡り ~南三陸の帰り道~ 

 こちらでは、南三陸からの帰り道で「攻略」してきたお城を紹介していきます。

 ボランティア終了翌日、8時前に宿を出て西へ向かいます。朝の気温は18℃。バイクの夏装備では寒くて、レインウェアを重ね着してしのぎます。
 398号線で登米を経て大崎市の岩出山へ。大崎市は宮城県北部に位置します。
 米どころ宮城といえば、南部の平野地帯が思い浮かびますが、大崎周辺は広大な沖積平野であり、水利にも恵まれて昔から豊かな生産を誇っていました。沿道の地形は変化に富んでいますが、それでも水田が多いこと! 津波の被害を受けていないので、現在では宮城県のコメ生産を支えているのではないでしょうか。

 この地域は中世、斯波一族の大崎氏が治めていました。豊かな土地を背景に奥州探題として勢威をふるいましたが、戦国期に衰退し、米沢に蟠踞する伊達氏に隷属するようになります。
 伊達政宗の外様の家臣になっていましたが、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったとして、大崎氏は改易となりました。秀吉はこの地に側近の木村吉清を送り込みますが、大崎市の旧臣による大規模な一揆によりこれまた改易。大崎領は米沢から転封となった伊達政宗に与えられました。

 政宗は、それまで出羽南部(置賜)、福島北部(中通り)を領していましたが、秀吉の奥州仕置の中で父祖伝来の地を逐われ、大崎領とさらに登米から三陸にかけての葛西領、宮城郡・名取郡などに減転封となります。
 この地にやってきた政宗が居城としたのが、現在の大崎市にあった岩出山城です。この地の検地を担当していた徳川家康が縄張りなどの整備をしたと言われます。
 若き政宗はここで12年間を過ごし、「大崎少将」と称されていました。

 岩出山の町に入ると、城下町らしい静けさです。細い道を通りぬけて岩出山高校・小学校を目指します。そこから細く急な山道を登ると、城山公園になります。SLが置いてある広場があって、ここにバイクを止めました。この広場も曲輪だったのでしょうが、斜面はかなり急峻で、麓に細い川も流れているので、その分防備も少なくなっています。

 そこから坂を登って行くと、いきなり主郭になります。
2015 宮城・福島の城 1
 かなり広めの削平地で、実際にここに住んでいたことを伺わせます。

 主郭は南北に長く、北の高所には物見台と紹介されている場所がありますが、ここは立入禁止でした。
 南に歩いて行くと、狭くくびれた虎口があり、土塁の跡も見られます。その先は出丸になっています。

 この出丸には「平和像」と呼ばれる政宗の立像があります。もともと仙台の青葉城にあったものでした。現在の青葉城には有名な甲冑姿の騎馬像がありますが、こちらは平服なので平和像と呼ばれるようです。高所にあって独眼を見開き、四海を睥睨する姿は、むしろ英雄的だと思うのですが。
2015 宮城・福島の城 2

 出丸から降りていくと、やはり虎口らしい構造があり、曲輪が続いています。一つ一つの曲輪の規模が大きく、山城とはいえ大大名の居城らしいです。
2015 宮城・福島の城 4

 斜面はしっかり切り立っていますね。おそらく切岸ではないかと思います。
2015 宮城・福島の城 3
2015 宮城・福島の城 8

 北の二ノ丸からの峰続きの部分は、深い堀切で仕切られています。
2015 宮城・福島の城 5

 全体としてはかなり大掛かりな城で、かなりの土木量が投入されたと思われますが、虎口などの現存具合が良くないこともあり、あまり技巧的には感じられません。その意味ではあくまで仮の居城という感じもします。
 もっとも、政宗が仙台に去ると、ここには政宗の四男宗泰が置かれ、岩出山伊達家が興されます。知行14000石余。岩出山城は「要害」とされ、居城となって維新を迎えました。
 なお、この岩出山伊達家の子孫は合併する前の岩出山町長を務めています。

 さて、岩出山城ですが、もう一度本丸の写真を。
2015 宮城・福島の城 6
 本丸に売店というのも…(しかも開いているのかどうか)。この城は「公園」なのですが、城址公園というより、本当に公園なんです。曲輪だった平地には遊具が置かれてるし、通路や柵もじゃんじゃん作られていますが、遺構の保存という面で見るとかなり怪しいです。曲輪の上下を繋ぐ坂道も、城の構造ではないようなルートを通しているところもあるし、肝心の空堀が見にくかったり、城址としての整備はほとんど考えられていないように思います。

 城というのは、人の動きをどう制限するか、というテーマで築かれるものです。である以上、それを見学するときは「どう不便に作っているか」ということがポイントになるはずです。通路が真っ直ぐ進めないように屈曲していたり、坂を急にしてみたり、狭くしてみたり。これは、観光地としても公園としても相容れない要素なわけです。
 ところが岩出山城は、明らかに「不便さ」を排除しようとしているように思います。そこに干渉しない部分だけは残されていても、現在の動線は動きやすいように改変されているようです。これは城址の整備としてはどうなのか。
 公園ならどこでも作れますが、城址はそこにしかないのです。であれば城の遺構を大事にしてほしいと思うのですが、いかがでしょうか。
 政宗の場合、仙台青葉城も本丸にお土産屋が、非常に俗な空間になっています。居城があまり大事にされていないので、なんだかかわいそうです。

 私自身も子供の頃からの政宗ファンとして、岩出山城には思い入れがあるのですが、なんとも残念です。


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新潟ツアー 揚北衆編 

 新潟ツアー2つ目のテーマは、「揚北衆」です。
 新潟県(旧越後国)の戦国大名といえば上杉謙信です。かなりの知名度だと思いますが、その謙信や後継者の景勝が越後の統治に非常に苦労したとこは意外に知られていません。
 では、その苦労した地域はどこなのか。地図を見てみましょう。
2015 揚北衆24
 左側の太い赤丸が上杉謙信の拠点、春日山城や直江津がある上越です。近世に入って平野部に高田城が築かれました。現在は上越市となっていますね。
 こうやって新潟県全体から見ると、かなり西方に偏って位置に本拠を置いていることが分かります。

 中越と言われる魚沼周辺は、要衝の地坂戸城を謙信の姉婿に当たる長尾政景が統治しました。その子長尾顕景が謙信の養子に入り、近世米沢藩初代藩主の景勝になっていますので、ここは準本拠といえるでしょう。景勝の腹心直江兼続は坂戸城主になっています。

 残るは東北方、下越です。現在の行政地名で言えば、新発田市・村上市・胎内市・阿賀野市といったあたりでしょうか。地図中は少し細めの赤線で囲んだあたりです。
 見ての通り、上越から遠いですね。春日山城から新発田まで約150キロほど。この距離は東京から富士市よりも遠いのです。

 この下越地域は、阿賀川より北に位置する地域なので、阿賀北、揚北などと呼ばれました(読みはどちらも「あがきた」)。耕地も広く、古代には渟足柵や磐舟柵が築かれるなど、早くから開けていました。
 ここに割拠するのは、鎌倉時代からここに封じられていた国人たちで、ひとくくりに「揚北衆」と呼ばれました。独立独歩の気風が強く、長尾家に従属しつつも隷属はしない、という集団でした。
 今回は、そんな揚北衆を代表する三人の故地を訪れました。実際にはあまり時間がなく、お城を訪ねるのみになってしまいましたが。

 まずは新発田城です。新潟は港湾都市で、河口に開けた町なので、国人の拠点にはなっていません。この周辺で重きをなしていたのは、揚北衆佐々木党の一族、新発田氏です。その新発田氏の拠点であり、その後は溝口氏が近世大名として治めました。

2015 揚北衆1
 現在の新発田城は、遺構が一部残っていますが、すべて近世のものです。最初に新発田城を眺めてみましょう。

2015 揚北衆2
 こちらは二ノ丸隅櫓。現存遺構ですが、実際には鉄砲櫓の位置に移築されています。塗籠で、破風などはありませんが、切込み接ぎの端正な石垣と相まって、秀麗な姿ですね。

2015 揚北衆5
 こちらも現存遺構の表門。海鼠塀が美しいですね。

 ただこの城、本丸などのじゅうような部分は、自衛隊の第30普通科連隊の駐屯地となっており、見ることができません。維新後、多くの城跡が陸軍の駐屯地となりましたが、それが今でも続いているというわけです。

2015 揚北衆4
 復元された本丸辰巳櫓から見下ろすと、その様子が分かります。現在の新発田城の代名詞とも言える復元三階櫓(実質的に天守だった)も駐屯地内にあり、見学できません。
 しょうがないとはいえ、お城全体の遺構を観察できないのは残念です。

2015 揚北衆3
 表門をくぐると、銅像が。新発田市民も知っているのかどうか。近世新発田藩の初代藩主、溝口秀勝です。戦国史に詳しい人でもあまり知らないですかね。
 丹羽長秀の家臣で、その後秀吉の直臣となり、新発田6万石に封ぜられました。関ヶ原では東軍につき、所領安堵。明治まで存続しました。前のエントリで書いたとおり、湿地帯だったこの地域ですが、溝口氏は代々積極的に新田開発を進め、実高が数十万石に上ったそうです。現在の新発田市の基礎を築いた人物ですね。赤穂浪士の堀部安兵衛ばかりが目立っていますが、もっと注目してほしいです。

 溝口氏四代目の重雄は新発田藩の藩政を確立させた名君で、文事にも秀でていました。彼が残した庭園が、「清水園」といい、現存しています。回遊式の庭園で、非常に美しい。素晴らしいお庭でした。
2015 揚北衆6

 清水園の隣には足軽長屋が残っており、こちらも見学できます。間取りとか非常に興味深いですね。
2015 揚北衆7

 さて、本題の揚北衆、新発田氏です。景勝の時の当主が新発田重家。剛勇で知られ、景勝が景虎(北条氏からの入嗣)と謙信の後継者を争った「御館の乱」では景勝について縦横無尽の活躍をしました。
 しかし十分な恩賞が得られず、景勝の措置に不満を持ち、天正9年(1581)についに反旗を翻します。新潟津を押さえて経済基盤を強化し、蘆名氏や伊達氏の援助を受け、景勝の軍勢をしばしば撃退するほどでした。その反乱はなんと7年にも及びます。
 しかし秀吉の助勢を得た景勝により、徐々に勢いを失い、ついに天正15年(1587)に新発田城から打って出て討ち死にを遂げました。享年41。
 勝者であり、直江兼続の存在もあって英雄視される上杉景勝ですが、御館の乱などで家督継承後も所領の支配に苦しんでいました。その景勝を最も苦しめたのが重家なのです。「反乱」と書きましたが、実際には国人が頼みにならない主君を見限ったということ。重家ほどの人物に見限られたのなら、景勝も兼続も大したことないな、なんて思います。逆に重家はもっと顕彰に値するのではないかと。
 どうしても歴史は勝者の目線で語られます。運がいいと真田信繁のように「美しい敗者」としてヒーローとなり得ますが、多くは「謀反」という言葉で切って捨てられ、歴史の狭間に埋没していきます。

 しかし、そんな「敗者」たちにも確たる人生があり、勝者の目線では汲み取れない実績や評価があるものです。わかりやすい例で言えば、石田三成が現在も地元で名君として仰がれているような。
 歴史ブームもいいですが、私はそういう「敗者」や目立たない人たち(溝口秀勝のような)にも目も向けたいのです。できれば、その故地に行き、その人物に寄り添ってみたい。歴史を見るなら、そこまで見ないと片手落ちではないかと思うのですよ。
 だから、溝口秀勝の銅像に会えて嬉しいし、新発田重家ももっと見つめたい。

 清水園をでて寺町を歩いていると、ちょうどお盆ということもあって、お墓参りの人で賑わっていました。屋台も出て、日本らしい良い光景だな、と思っていたら、
2015 揚北衆23
 新発田重家の坐像がありました。ちゃんと顕彰されているではないですか!

2015 揚北衆8
 ここは溝口秀勝が新発田重家の菩提を弔った福勝寺というお寺です。お墓も大事にされていて、温かい。嬉しくなってお参りしていると、ちょっと奇異な目で見られましたが…。
 でも、これがその地に行くことの幸せですね。重家ももって瞑すべし、です。

 のこり2人は【続きを読む】で。


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japantourist

Author:japantourist
3児の父、リターンライダー。歴史マニアにして、レガシィB4を乗り回し、天文書を片手に星空を眺める。
横浜FCを追いかけ、サッカーボールを蹴っ飛ばす。
ホントは何が好きなんでしょうか・・・

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