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2015年08月の記事一覧

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新発田の名物届きました 

 ネットで注文していた新潟県は新発田食品さんから届きました!
 小鯵のから寿し、塩引き鮭、筋子の粕漬けです。楽しみ~♪
20150830-2



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東北お城巡り ~南三陸の帰り道~ 

 こちらでは、南三陸からの帰り道で「攻略」してきたお城を紹介していきます。

 ボランティア終了翌日、8時前に宿を出て西へ向かいます。朝の気温は18℃。バイクの夏装備では寒くて、レインウェアを重ね着してしのぎます。
 398号線で登米を経て大崎市の岩出山へ。大崎市は宮城県北部に位置します。
 米どころ宮城といえば、南部の平野地帯が思い浮かびますが、大崎周辺は広大な沖積平野であり、水利にも恵まれて昔から豊かな生産を誇っていました。沿道の地形は変化に富んでいますが、それでも水田が多いこと! 津波の被害を受けていないので、現在では宮城県のコメ生産を支えているのではないでしょうか。

 この地域は中世、斯波一族の大崎氏が治めていました。豊かな土地を背景に奥州探題として勢威をふるいましたが、戦国期に衰退し、米沢に蟠踞する伊達氏に隷属するようになります。
 伊達政宗の外様の家臣になっていましたが、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったとして、大崎氏は改易となりました。秀吉はこの地に側近の木村吉清を送り込みますが、大崎市の旧臣による大規模な一揆によりこれまた改易。大崎領は米沢から転封となった伊達政宗に与えられました。

 政宗は、それまで出羽南部(置賜)、福島北部(中通り)を領していましたが、秀吉の奥州仕置の中で父祖伝来の地を逐われ、大崎領とさらに登米から三陸にかけての葛西領、宮城郡・名取郡などに減転封となります。
 この地にやってきた政宗が居城としたのが、現在の大崎市にあった岩出山城です。この地の検地を担当していた徳川家康が縄張りなどの整備をしたと言われます。
 若き政宗はここで12年間を過ごし、「大崎少将」と称されていました。

 岩出山の町に入ると、城下町らしい静けさです。細い道を通りぬけて岩出山高校・小学校を目指します。そこから細く急な山道を登ると、城山公園になります。SLが置いてある広場があって、ここにバイクを止めました。この広場も曲輪だったのでしょうが、斜面はかなり急峻で、麓に細い川も流れているので、その分防備も少なくなっています。

 そこから坂を登って行くと、いきなり主郭になります。
2015 宮城・福島の城 1
 かなり広めの削平地で、実際にここに住んでいたことを伺わせます。

 主郭は南北に長く、北の高所には物見台と紹介されている場所がありますが、ここは立入禁止でした。
 南に歩いて行くと、狭くくびれた虎口があり、土塁の跡も見られます。その先は出丸になっています。

 この出丸には「平和像」と呼ばれる政宗の立像があります。もともと仙台の青葉城にあったものでした。現在の青葉城には有名な甲冑姿の騎馬像がありますが、こちらは平服なので平和像と呼ばれるようです。高所にあって独眼を見開き、四海を睥睨する姿は、むしろ英雄的だと思うのですが。
2015 宮城・福島の城 2

 出丸から降りていくと、やはり虎口らしい構造があり、曲輪が続いています。一つ一つの曲輪の規模が大きく、山城とはいえ大大名の居城らしいです。
2015 宮城・福島の城 4

 斜面はしっかり切り立っていますね。おそらく切岸ではないかと思います。
2015 宮城・福島の城 3
2015 宮城・福島の城 8

 北の二ノ丸からの峰続きの部分は、深い堀切で仕切られています。
2015 宮城・福島の城 5

 全体としてはかなり大掛かりな城で、かなりの土木量が投入されたと思われますが、虎口などの現存具合が良くないこともあり、あまり技巧的には感じられません。その意味ではあくまで仮の居城という感じもします。
 もっとも、政宗が仙台に去ると、ここには政宗の四男宗泰が置かれ、岩出山伊達家が興されます。知行14000石余。岩出山城は「要害」とされ、居城となって維新を迎えました。
 なお、この岩出山伊達家の子孫は合併する前の岩出山町長を務めています。

 さて、岩出山城ですが、もう一度本丸の写真を。
2015 宮城・福島の城 6
 本丸に売店というのも…(しかも開いているのかどうか)。この城は「公園」なのですが、城址公園というより、本当に公園なんです。曲輪だった平地には遊具が置かれてるし、通路や柵もじゃんじゃん作られていますが、遺構の保存という面で見るとかなり怪しいです。曲輪の上下を繋ぐ坂道も、城の構造ではないようなルートを通しているところもあるし、肝心の空堀が見にくかったり、城址としての整備はほとんど考えられていないように思います。

 城というのは、人の動きをどう制限するか、というテーマで築かれるものです。である以上、それを見学するときは「どう不便に作っているか」ということがポイントになるはずです。通路が真っ直ぐ進めないように屈曲していたり、坂を急にしてみたり、狭くしてみたり。これは、観光地としても公園としても相容れない要素なわけです。
 ところが岩出山城は、明らかに「不便さ」を排除しようとしているように思います。そこに干渉しない部分だけは残されていても、現在の動線は動きやすいように改変されているようです。これは城址の整備としてはどうなのか。
 公園ならどこでも作れますが、城址はそこにしかないのです。であれば城の遺構を大事にしてほしいと思うのですが、いかがでしょうか。
 政宗の場合、仙台青葉城も本丸にお土産屋が、非常に俗な空間になっています。居城があまり大事にされていないので、なんだかかわいそうです。

 私自身も子供の頃からの政宗ファンとして、岩出山城には思い入れがあるのですが、なんとも残念です。


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2015 南三陸こぼれ話 

 南三陸ツアーは、今回はあまり時間をかけられなかったので、ほとんど南三陸往復で終わりでした。ここでは南三陸のグルメ情報と、町の変化の様子などを点綴していきたいと思います。

 まずは食べ物。お昼はバイクの機動力を生かしてさんさん商店街の「志のや」さんに行きました。ほぼ毎年行ってますけどね。
 食べるのは恒例のウニ丼。それなりの値段ですが、生ウニ使っていますからほんとに雑味がなくて甘い。
2015南三陸夏 12

 それから、今年は生ホヤも出ていました。ワタもちゃんとついてて、風味豊か。新鮮なので臭みなんて全くなく、いくらでもいけます。この日、同宿だった人がホヤを夕食に差し入れて下さり、そこでもたくさん頂いてしまいました。大満足!
2015南三陸夏 30

 翌日はウニ丼売れ切れ! …2日連続で食べようとしてたのか、というツッコミはおいておき、この日は同じ「志のや」さんで海鮮丼を頂きました。こちらもかなりの実力ですよ!
2015東北 追加 (1)

 ちなみに宿はいつもの「なか」さん。今回で10泊目を数えます。夏に来たら必ずこちら。
2015東北 追加 (2)
 お約束、棘皮がまだ動いている生ウニ。これをスプーンで掬っていただきます。今回は2泊ですが、2日とも! すっかり慣れていますが、それでも毎回感動の美味しさ。

 さんさん商店街は相変わらずの人出です。いずれ移転という話になるようですが。
2015南三陸夏 13

 さて、南三陸町の志津川地区ですが、高台移転を見据えた造成が急ピッチで進んでいます。
 特に河口近くの45号線・398号線が合流するあたりは、盛土の造成が盛んです。来るたびに道路の状況が変化していて、未だに迷いそうになってしまいます。
2015南三陸夏 15
 こうしていても、盛土の高台が目立つようになりました。

2015南三陸夏 16
 ダンプの往来も激しいです。

2015南三陸夏 17
 ここは398号線から左折して、45号線を北上する最初の高台です。ここは盛土で作られていて、早くに道路が付け替えられていました。新しい道路も舗装されています。.

2015南三陸夏 18
 先ほどの高台を一旦下り、以前は変電所があったあたり。セブンイレブンを過ぎてすぐです。右手の山は役場のあたりにつながっています。左手は志津川小学校の裏手になりますが、かなり山が削られ、盛土が造成されています。

2015南三陸夏 5
 去年はこの程度だったんですが…。

2015南三陸夏 19
 戻って。旧防災庁舎。毎年写真をアップしていますが、変化が大きい地域ですね。周囲に盛土が目立つようになりましたl.今まで背景は殆どなかったのですが、盛土が目立つようになってきました。

2015南三陸夏 21
2015南三陸夏 20
 川の両岸も相当盛土をしています。防災庁舎は当面残されるようですが、そうなると庁舎の周辺は盛土ができませんんので、そこだけ谷間のようになってしまいます。

 ちなみに以前はこんな感じ。
2015南三陸夏 3
 写真の方向は違いますが、盛土がないと印象が違うでしょ?

2015南三陸夏 28
2015南三陸夏 29
 例年通り、志津川中学校に登る道から撮影。変化が大きいですね。防災庁舎をズームしてみると、周囲の高さがよくわかると思います。

 こちらも以前はこんな感じ。
2015南三陸夏 4

 写真はありませんが、さんさん商店街から佐沼方面に向かうと、コメリやGS、ローソンなどができていますし、三陸道の橋の建設も進んでいます。
 戸倉の沿岸の道路周辺もかなり造成が行われています。どうしても茶色が目立つし、道路も汚れがちなのですが、それが復興ということ、と前向きにとっておきましょう。

 役場のある高台には、以前にも紹介した病院の建設が進んでいます。
2015南三陸夏 23
 建物自体はもう完成しているようですね。内装などの工事の最中のようです。今年中には完成のはず。

 この病院の隣も造成されています。
2015南三陸夏 22

 この手の工事が完成するのはいつになるかわかりませんが、早く落ち着ける町になるといいですね。
 以上、かなり大雑把ですが志津川地区の様子でした。


2015夏 南三陸ボランティアへ 

 今年の夏も南三陸町へ行ってきました。3月のボランティア感謝の集い以来になります(記事はこちらこちら)。このイベントのあと、ボランティアセンターのテントが解体になり、様変わりしたであろう役場周辺が気になっていました。

 先週金曜日、仕事を定時で終わらせて、そのままバイクで出発。雨の東北道をひた走り、22時半過ぎに宮城県登米市に到着。そのままホテルで一泊し、翌朝ボランティア活動開始の時間にあわせて南三陸町に入りました。
 すっかり慣れた道を通って役場そばの駐車場へ。今まではここで目に飛び込んできたボラセンの大きなテントがありません。
2015南三陸夏 8

 ちなみに2012年にはこんな感じでした。
2015南三陸夏 1
 隣のプレハブは社会福祉協議会のもの。ここは残っていて、ボラセンは規模を小さくして社協の中に入ったのです。ボラセンの向こう側の山はすっかり削られ、ボラセンがあった場所も含めて住宅街として造成されます。

 去年はまだ造成途中で残っていた駐車場背後の山も…
2015南三陸夏 6

 ことしはつるりとしています。毎年の感想ですが、来るたびに風景が変わっています。
2015南三陸夏 9

 1日目は、戸倉地区で農業支援です。偶然にも、昨年秋(こちら)に活動したのと同じ場所でした。
 とはいえ、この辺りもずいぶん様子が変わっていて、ハウスもたくさん建っていたのではじめは全然気づきませんでしたが。

 今回も団体さんが多くて、100人超が参加。ハウスの中で恒例の石の除去作業です。
2015南三陸夏 10
2015南三陸夏 11
 昨年もそうだったのですが、非常に粘土質の多い土です。昨年は雨の後で土がかなり粘っこい感じでしたが、今回はハウスの中で乾燥していて、その粘土がガッチリ固まっていました。粘土なんだか岩なんだかわからない状態で、結構苦労しました。
 しかも午後は日差しも出て、外は25℃くらいの過ごしやすい気候なのに、ハウスの中は暑いこと! でも頑張りましたよ~。
 出身中学がお隣だった人もいて、ホントの世間は狭いなと思いました。

2015南三陸夏 14
 昨年頑張ったあたりはもう菊の栽培が行われていました。きれいに咲き乱れていて嬉しくなりました。それにしてもいくらボランティアで石を取り除いたりしても、そこから栽培可能な土にするまでは非常に苦労されたのではないかと思います。

 2日目は、一般のボランティアではなく、「南三陸応縁団」が運営する「恩送りファームおでって」に参加しました。南三陸農工房さんが運営する農場のお手伝いです。
 通常のボランティアでは周りの人もみんなボランティアですから、あまり地元の方とお話できないのですが、「おでって」ではばっちり農家の方にご指導いただけるので、たくさんお話を聞けます。

 南三陸農工房の畑は入谷地区にあります。入谷は志津川から少し内陸に入った地域で、海からも遠いので津波の被害を受けていません。逆に震災後は支援の拠点として貴重な場所でした。今はのどかな農村です。
2015南三陸夏 25

 作業も完全に「農作業」。人参の中耕作業や殺菌剤、肥料の散布、大根の播種などを行いました。「おでって」について詳しくは応縁団のサイトで(こちら)!
2015南三陸夏 26

 休憩時間には美味しいスイカも頂きました。甘いのなんの!
2015南三陸夏 27

 というわけで、2日間でしたが有意義な活動ができたと思います。もちろん、これからも何度でも参加しますよ!


2015 静岡社会科見学ツアー 

 これまた毎年恒例になっている、社会科見学ツアーです。今年は静岡県でした。

 バスで最初に向かったのは、旧東海道由比宿。由比といえば薩埵峠の麓の宿場。山が海に迫る狭小な土地で、広重の絵でも有名ですね。宿場町の雰囲気がわずかですが残っています。
 数年前にやはり静岡に社会科見学ツアーに行った時もこちらによりましたが、あらためて。

2015 静岡社会科見学ツアー 1
 正雪紺屋というのがありまして、由比正雪の生家と言われます。
 由比正雪は江戸時代を代表するピカレスクロマン(?)の主人公ですが、最近は殆ど無名ですね。なにせいまどきの若い人は忠臣蔵も知らなかったりしますから、由比正雪知ってる人なんて絶滅危惧種でしょうな。簡単に言うと、軍学者の由比正雪は将軍家光が病没した時に、その混乱のすきを突いて挙兵し、幕府転覆を図ったといいます。露見して捕吏に追い詰められて自刃しますが、浪人の増加による社会不安が顕在化した事件であり、そののち武断政治にブレーキが掛かっていきます。
 こちらのお店はおみやげ屋さんです。

2015 静岡社会科見学ツアー 2
 脇本陣跡。近代の郵便局の建物があり、面白いコラボです。

 次は牧之原に向かいます。牧之原といえばお茶。明治維新後、徳川宗家は静岡に70万石の封地が与えられ、徳川家達が静岡藩を立藩します。家達以下旧幕臣が挙って移住したため藩士の生活が苦しく、窮乏しました。そこで未開地への入植が奨励され、牧之原台地への進出が始まったのです。
 元々牧之原は水が得にくい台地が広がっていて、水田耕作には不向きで、麓の村々の入会山の扱いでした。しかし高燥な土地を生かして茶の栽培に挑戦、成功します。現在が全国一の生産量を誇るようになりました。

2015 静岡社会科見学ツアー 3
 ここではグリンピア牧之原に伺いました。喜作園が運営する施設で、お茶摘み体験や工場見学ができます。

2015 静岡社会科見学ツアー 4
 それにしても茶畑ってきれいですよね。いつも新幹線から眺めていますが、なかなかじっくり見るチャンスはないものです。お茶の木は放っておくと大木になって何百年も育つそうですが、農産物としては長く育てず、数年で植え替えるそうです。
 秋に大胆に枝をカットして、春に摘むのが一番茶。だいたい三番茶ぐらいまで摘むそうですが、後の方ほど風味が落ちるので、そういうのがペットボトルようになるそうです。
 茶畑といえば無数に立っているファン。防霜ファンといいます。早春の頃冷たい空気が低いところに溜まって霜が降りるのを防ぐために、空気を撹拌するために使います。つまりこれだけ目立つ割に、お仕事をする期間は短いわけですね。

2015 静岡社会科見学ツアー 5 
2015 静岡社会科見学ツアー 6
 手摘みの場合は一芯二葉といって、若い芽を選ぶのですが、名人でも非常に時間がかかるそうです。

 2015 静岡社会科見学ツアー 7

 ちょっと見にくいですが、杭の上においてあるのはなんだか分かりますか? これは茶の実です。お茶も植物である以上、花が咲き、実がなります。この三角になる実が茶畑の地図記号になったんです。

2015 静岡社会科見学ツアー 8
 これが茶摘みの機械。両側に一人ずつついて使用します。これで畝の半分を刈り取ります。左側を持つ人は高さを固定し、畝の中央へ。右側を持つ人が畝の外側にいて、高さを調整しながら動きます。袋にだいたい20キロほど集めるそうです。
 エンジンが付いているのは左側ですが、実際には右側を持つほうが袋の重さがかかってきて大変なんだとか。

 次は社会科見学っぽくないですが、大井川鐵道へ。旧川根町の家山駅に向かいます。なかなかいい感じの駅ですな。ここでSLに乗るわけですが、ちょっと時間があるので散歩。
2015 静岡社会科見学ツアー 10 

 駅の近くに小高い山があって、天王山公園とあります。展望台があったので、登ってみました。古墳や土器が出土した山だそうです。中央の通りの突き当りが家山駅。その向こうには大井川が見えています。こじんまりしていい町ですね。
2015 静岡社会科見学ツアー 13

2015 静岡社会科見学ツアー 12 

 さて、駅に戻ると、ちょうどSLが。
2015 静岡社会科見学ツアー 9
 って、トーマスかいっ! C11型をガッツリ改造、トーマスなりきりですね。子供に人気で、なかなか予約取れないらしいですね。でもこれなら乗るより見るほうが…。

2015 静岡社会科見学ツアー 11
 大井川鐵道といえばSLかアプトみたいになってるけど、引退して留置されてる元京阪の3000系もいい感じだぞ。「テレビカー」って誇らしげに描いてあってね。京阪のハトマークが可愛い。動いてる時に乗れなかったのが残念。

2015 静岡社会科見学ツアー 14 
 さぁ、我々がのるSLが入線してきました。C10型です。現存する唯一のC10型なんですぜ。

2015 静岡社会科見学ツアー 15 
 終点の新金谷駅まで大井川の景色を楽しみながらゆっくり進みます。一応「急行」なんですけどね。沿道に人が必ず手を振ってくれるのが楽しいですね。
 新金谷駅には転車台が新設されています。客車を切り離したC10が転車台でゆっくり回転。これをゆっくり見られるのは嬉しいですね。

 1日目はここまで。掛川市内で宿泊です。偶然にも昨年行った高天神城の近くで、遠くに城址が望めました。ちなみに次の日はこれも去年行った横須賀城のすぐ傍を通りました。
 荷物を置いてから、海まで散歩。途中、こんなものを見つけました。
2015 静岡社会科見学ツアー 16 

 東日本大震災で津波被害についての対策が見直されるようになりました。特に10メートルを超える津波が東北を襲ったこともあって、これまで数メートルレベルで考えられていた対策が、大きく変化してきたのです。
 この避難所も鉄筋コンクリートで頑丈に作られた15mの高さのものです。骨格を頑丈に作り、空間を大きくとって流されたものが引っかかりにくくしています。いつでも避難できるように鍵などはなく、自由に上がれるようです(さすがに遠慮しましたが)。

 次の日はひどい雨でした。向かったのは磐田のヤマハ。バイク工場の見学です。さすがに写真は取れませんが、なかなか面白かったですね。生産ラインのすぐ近くを通って見せてもらいましたから。
 T-MAXとWR250、YZ250(コンペモデル)などがラインを流れていました。組付けの様子が見えて興味深かったです。
 面白かったのが、SR400。生産量はすくないながら古典的な名車で今でも一定数が売れています。これはラインを流さず、1ヶ所において手で組み立てていました。数が出ないので、ラインに乗せるとかえって効率が悪いそうです。また、すべての組み立てをするので、工場に勤める人がバイクの構造を学ぶのに良い教材となるらしく、ベテランと新人がペアで組むことが多いとか。確かにベーシックなSRは良い教材になるでしょうね。 

 工場見学の後は展示ホール「ヤマハコミュニケーションプラザ」。様々なモデルが展示されてて、テンション上がります。まぁ、私はヤマハのバイクは乗ったことないんですけどね。TDM900とかXJR1300とかは考えたことありますけど。

 ただヤマハといえばまずこっちなんですよ、気になるのは。
2015 静岡社会科見学ツアー 17
 TOYOTA2000GT! 生産台数わずか337台の希少スーパーカーです。トヨタブランドですが、生産はヤマハに委託されました。ロングノーズ・ショートデッキのスタイルは何度見ても美しい。芸術品です。1967年から70年までの古典的名車ですが、今でもカッコいいですよ。

2015 静岡社会科見学ツアー 18
 3M型エンジンは、トヨタ初のDOHCエンジンです。カムシャフトカバーが美しい。バルブ挟み角が広く取られているのがいいですね。現代のエンジンはコンパクトにするために挟み角を小さくしてるし、カバーもでっかいのがついててエンジンの姿がよく見えないのが残念。これぞ機能美です。CBくんの空冷エンジンもこれを求めているわけですよ。

 バイクではこちら。
2015 静岡社会科見学ツアー 19
 RZ250です。いや~、憧れたな~。
 2ストスポーツ全盛期の火付け役となったモデルですよ。250cc水冷2スト並列2気筒。35psを発揮しました。リアにモノクロスサスを採用しているところも新しくてカッコ良かった。
 このあと、RZ250RではフロントブレーキをW化、リアブレーキをディスクにし、排気デバイスの採用で43psへ。さらにRRはフルカウルとなり、最高出力も250ccでは規制上限値の45psまで上げられました。
 でも、やっぱ初期型がかっこいいと思ってしまうんだな。
 
 2ストではV4エンジンのRZV500なんかも展示されてて目が奪われますが、やっぱりRZ250が楽しいバイクの原点の一つな気がします。

 このあと、ヤマハのTZR、ホンダのNSR、スズキのRGV-γなど、高性能レーサーレプリカがバンバン登場して、空前のバイクブームがやってきます。2ストが排ガスの問題で廃れると、4スト4気筒の高回転高出力エンジンを積んだモデル(CBR、FZR、ZXR、GSX-R)が相次ぎ、バイクブームを支えました。その後これらは排ガス規制・騒音規制や若者のバイク離れなどですっかり消えてしまいました。

 今の250スポーツは復権してきましたが、どれも4スト単気筒か2気筒。30馬力そこそこで扱いやすさ重視のモデルばかり。敷居は低くなって、燃費も良くなったかもしれませんが、あの頃のギンギン250が懐かしいです。

 このあと、掛川城に行く予定でしたが、雨が強いままなので予定を切り上げ、横浜に戻りました。ちょっと物足りなかったなぁ。



SEALsを見てて思い出す 

 大学のとき、私は「歴史研究会」に所属していました。まぁ、サークル的なお遊びもしつつ、毎月の定例研究発表があって、勉強もしてました。レジュメの作り方や討論の仕方も身に付けましたが、なにより史料という根拠をもとに論を展開する当たり前の研究のあり方の基礎を、しっかり学ばせてもらいました。
 それまでの私が、相当の歴史好きであっても、「研究」というには程遠かったのを実感させられましたし、あらためて「歴史研究」というものを一から学ぶことで、現在につながるステップになったのでした。

 とまあ楽しくやっていた冬のある日、歴史研究会の同学年に中途入会希望者が現れました。Kとしましょう。彼は「社会科学研究会」とかそんな名前の研究会と掛け持ちだそうで、同期4人しかいなかったのもあって、どうぞどうぞと入ってもらったんですがこれがとんだ食わせ者でした。

 まず個人的資質として、空気読まない、人の話を聞かない、遠慮しない、仕切りたがるなど、和やかにやっていた研究会を引っ掻き回してくれました。それでも、小さい所帯の集団がまとまっていると同調圧力が強いから、と大目に見ていたのです。

 定例の研究発表になると、ますますKがめんどくさいヤツとわかってきました。なんか話が胡散臭い。一応歴史に関することの研究発表なんですが、権力による抑圧とか、解放運動とか、そんなんばっかで非常にイデオロギー的。さらに事実誤認が多い。歴史学的研究手法なんて全く知らず、思い込みだけでやるもんだから、総ツッコミをうけていたけど、本人はそれを認めない。

 まぁ、ちゃんとした勉強をしないで、偏った、かつ乏しい知識をもとに権力批判をしたいだけなんですな。
 で、それを日常生活でも宣伝するようになってきて、しまいには「社会科学研究会」やらにも勧誘をするようになってきた。学生も行動して社会を変えようよ、みたいな。

 それに対して我々が言ったのは、「学生はまず勉強しろよ」
 不勉強だから研究手法も知らないし、知識がないから根拠に基づいた主張ができない。そんでもって自分の主義によってるから、人の話を聞かない。

 もうどうにもならなくて、退会していただきましたよ。跡から先輩に聞いたところによると、勧誘→乗っ取りのコンボを狙っての尖兵だったんだと。
 今ならそういうことを疑ったと思いますが、当時の私はウブでしたからね(笑)

 ただ、引っかからずに済んだのは、きちんと勉強していたからだと思います。ほかはともかく、歴史の勉強は熱心にやってましたから。論理展開や事実認識の面でよってたかって完全論破でしたもん。
 その時思ったのは、まず主義主張より勉強をすることだということ。フィルタが入った状態から勉強してもダメですね。SEALsの主張見ていると、とにかく視野が狭く、勉強が足りない。

 行動する学生とか美化してるけど、馬鹿言うんじゃない。学生は勉強だよ。

 Kがいなくなって、嵐がさっとように静けさを取り戻した歴史研究会のメンバーに共通する感想でした。

 

地図帳って 

 すごく面白いですよね。実は中学生用の地図帳を愛用しています。暇さえあれば眺めて、旅の構想をねっています。
 あとは、子どもたちにもマメに見せて勉強させてます。3年生の娘は、1年生の頃にはもう全都道府県覚えてました。

地図帳


新潟ツアー 新潟・福島雑感 

 越後平野の治水のことと、揚北衆についてまとめましたが、ここでは旅の雑感やこぼれ話を点綴して行きたいと思います。

 新潟県には何度も行っていますが、実は新潟市街にちゃんと行くのは初めてでした。史跡めぐりや社会科見学中心の私の旅ではよくあることで、県庁所在地にあまり用がないのですよ。札幌とか、秋田とか、富山とか宮崎とか、今でも行ったことないのです。
 新潟も土地勘がないので、地図とにらめっこ。見えてきたのは、信濃川と関屋分水で島のようになっている(実際に地元の人は島と呼んでいるようですね)地域が、本来の「新潟」であること。市役所をはじめとして、古町と言われる繁華街などがあります。ところがJRの新潟駅はその対岸にあります。これは信濃川の川幅が広く、鉄橋などの建設の負担を考えてのこと。
 実際に1930年の新潟の地図を見ると、市街地はほとんど「島」にあることが分かります。

2015新潟雑感 23
 対岸の小さな市街地は「沼垂」という町で、江戸時代には新発田藩(沼垂)と長岡藩(新潟)で支配が違いました。新潟との間に利権争いがあり、明治時代には新潟駅の誘致を巡って爆破騒ぎが起きるほど。前述の理由で沼垂側に駅ができると、次第に市街が一体化し、現在に至ります。現在の新潟駅周辺は新しい商業街になり、多少「島」とは毛色が違うようですね。

2015新潟雑感 1
 新潟市歴史博物館は「島」側にあり、そこから信濃川を挟んで対岸を見ると、ちょうど佐渡行きのフェリーが停泊していました。

2015新潟雑感 2
 左側がコンベンションセンター「朱鷺メッセ」、高いビルが日航ホテルです。

 新潟でお知り合いになった女の子に、新潟名物を教えてもらいました。色々回ったあとに、「島」にあるバスセンターに行くと、「みかづき」というお店があります。
2015新潟雑感 4

 ここで新潟の庶民の味「イタリアン」を食べてみました。
2015新潟雑感 3
 分かりますか? 簡単に言うと、ソース焼きそばにトマトソースがかかっているのです。お値段330円と格安。お昼もだいぶ過ぎてお店に入ったのですが、かなり繁盛していて、多くの人がこれを食べています。新潟市民は昔からこれに慣れ親しんでいて、県外に出て初めて新潟独自のものと気づく人もいるんだとか。面白いですね。
 味はというと、トマトソースが意外にしっくりと来まして、なかなかオツなもんでございました。

 その後、福島潟でみかけた美大生デザインの手ぬぐいを見ると…。
2015新潟雑感 16
 イタリアン(笑)

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新潟ツアー 揚北衆編 

 新潟ツアー2つ目のテーマは、「揚北衆」です。
 新潟県(旧越後国)の戦国大名といえば上杉謙信です。かなりの知名度だと思いますが、その謙信や後継者の景勝が越後の統治に非常に苦労したとこは意外に知られていません。
 では、その苦労した地域はどこなのか。地図を見てみましょう。
2015 揚北衆24
 左側の太い赤丸が上杉謙信の拠点、春日山城や直江津がある上越です。近世に入って平野部に高田城が築かれました。現在は上越市となっていますね。
 こうやって新潟県全体から見ると、かなり西方に偏って位置に本拠を置いていることが分かります。

 中越と言われる魚沼周辺は、要衝の地坂戸城を謙信の姉婿に当たる長尾政景が統治しました。その子長尾顕景が謙信の養子に入り、近世米沢藩初代藩主の景勝になっていますので、ここは準本拠といえるでしょう。景勝の腹心直江兼続は坂戸城主になっています。

 残るは東北方、下越です。現在の行政地名で言えば、新発田市・村上市・胎内市・阿賀野市といったあたりでしょうか。地図中は少し細めの赤線で囲んだあたりです。
 見ての通り、上越から遠いですね。春日山城から新発田まで約150キロほど。この距離は東京から富士市よりも遠いのです。

 この下越地域は、阿賀川より北に位置する地域なので、阿賀北、揚北などと呼ばれました(読みはどちらも「あがきた」)。耕地も広く、古代には渟足柵や磐舟柵が築かれるなど、早くから開けていました。
 ここに割拠するのは、鎌倉時代からここに封じられていた国人たちで、ひとくくりに「揚北衆」と呼ばれました。独立独歩の気風が強く、長尾家に従属しつつも隷属はしない、という集団でした。
 今回は、そんな揚北衆を代表する三人の故地を訪れました。実際にはあまり時間がなく、お城を訪ねるのみになってしまいましたが。

 まずは新発田城です。新潟は港湾都市で、河口に開けた町なので、国人の拠点にはなっていません。この周辺で重きをなしていたのは、揚北衆佐々木党の一族、新発田氏です。その新発田氏の拠点であり、その後は溝口氏が近世大名として治めました。

2015 揚北衆1
 現在の新発田城は、遺構が一部残っていますが、すべて近世のものです。最初に新発田城を眺めてみましょう。

2015 揚北衆2
 こちらは二ノ丸隅櫓。現存遺構ですが、実際には鉄砲櫓の位置に移築されています。塗籠で、破風などはありませんが、切込み接ぎの端正な石垣と相まって、秀麗な姿ですね。

2015 揚北衆5
 こちらも現存遺構の表門。海鼠塀が美しいですね。

 ただこの城、本丸などのじゅうような部分は、自衛隊の第30普通科連隊の駐屯地となっており、見ることができません。維新後、多くの城跡が陸軍の駐屯地となりましたが、それが今でも続いているというわけです。

2015 揚北衆4
 復元された本丸辰巳櫓から見下ろすと、その様子が分かります。現在の新発田城の代名詞とも言える復元三階櫓(実質的に天守だった)も駐屯地内にあり、見学できません。
 しょうがないとはいえ、お城全体の遺構を観察できないのは残念です。

2015 揚北衆3
 表門をくぐると、銅像が。新発田市民も知っているのかどうか。近世新発田藩の初代藩主、溝口秀勝です。戦国史に詳しい人でもあまり知らないですかね。
 丹羽長秀の家臣で、その後秀吉の直臣となり、新発田6万石に封ぜられました。関ヶ原では東軍につき、所領安堵。明治まで存続しました。前のエントリで書いたとおり、湿地帯だったこの地域ですが、溝口氏は代々積極的に新田開発を進め、実高が数十万石に上ったそうです。現在の新発田市の基礎を築いた人物ですね。赤穂浪士の堀部安兵衛ばかりが目立っていますが、もっと注目してほしいです。

 溝口氏四代目の重雄は新発田藩の藩政を確立させた名君で、文事にも秀でていました。彼が残した庭園が、「清水園」といい、現存しています。回遊式の庭園で、非常に美しい。素晴らしいお庭でした。
2015 揚北衆6

 清水園の隣には足軽長屋が残っており、こちらも見学できます。間取りとか非常に興味深いですね。
2015 揚北衆7

 さて、本題の揚北衆、新発田氏です。景勝の時の当主が新発田重家。剛勇で知られ、景勝が景虎(北条氏からの入嗣)と謙信の後継者を争った「御館の乱」では景勝について縦横無尽の活躍をしました。
 しかし十分な恩賞が得られず、景勝の措置に不満を持ち、天正9年(1581)についに反旗を翻します。新潟津を押さえて経済基盤を強化し、蘆名氏や伊達氏の援助を受け、景勝の軍勢をしばしば撃退するほどでした。その反乱はなんと7年にも及びます。
 しかし秀吉の助勢を得た景勝により、徐々に勢いを失い、ついに天正15年(1587)に新発田城から打って出て討ち死にを遂げました。享年41。
 勝者であり、直江兼続の存在もあって英雄視される上杉景勝ですが、御館の乱などで家督継承後も所領の支配に苦しんでいました。その景勝を最も苦しめたのが重家なのです。「反乱」と書きましたが、実際には国人が頼みにならない主君を見限ったということ。重家ほどの人物に見限られたのなら、景勝も兼続も大したことないな、なんて思います。逆に重家はもっと顕彰に値するのではないかと。
 どうしても歴史は勝者の目線で語られます。運がいいと真田信繁のように「美しい敗者」としてヒーローとなり得ますが、多くは「謀反」という言葉で切って捨てられ、歴史の狭間に埋没していきます。

 しかし、そんな「敗者」たちにも確たる人生があり、勝者の目線では汲み取れない実績や評価があるものです。わかりやすい例で言えば、石田三成が現在も地元で名君として仰がれているような。
 歴史ブームもいいですが、私はそういう「敗者」や目立たない人たち(溝口秀勝のような)にも目も向けたいのです。できれば、その故地に行き、その人物に寄り添ってみたい。歴史を見るなら、そこまで見ないと片手落ちではないかと思うのですよ。
 だから、溝口秀勝の銅像に会えて嬉しいし、新発田重家ももっと見つめたい。

 清水園をでて寺町を歩いていると、ちょうどお盆ということもあって、お墓参りの人で賑わっていました。屋台も出て、日本らしい良い光景だな、と思っていたら、
2015 揚北衆23
 新発田重家の坐像がありました。ちゃんと顕彰されているではないですか!

2015 揚北衆8
 ここは溝口秀勝が新発田重家の菩提を弔った福勝寺というお寺です。お墓も大事にされていて、温かい。嬉しくなってお参りしていると、ちょっと奇異な目で見られましたが…。
 でも、これがその地に行くことの幸せですね。重家ももって瞑すべし、です。

 のこり2人は【続きを読む】で。


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新潟ツアー 干拓編 

 お盆の前、新潟ツアーに行ってきました。旅のテーマが2つあって、その1つが新潟の干拓事業です。
 越後平野は今でこそ米どころで知られます。平成25年は664,300tの生産で全国1位です。しかしもともとの越後平野は、信濃川と阿賀野川の河口に広がる低湿地で、日本海よりも標高が低く、悪水がたまってとてもじゃないですが豊かな耕地となる地域ではありませんでした。
 人々は湿地に水路を掘って排水に努め、わずかでも客土をして稲作をしていました。それでも排水は十分ではなく、腰まで水に使っての農作業を強いられていました。
 ひとたび大雨が降れば、あっという間に周囲が水浸しになり、洪水の被害も少なくありませんでした。
2015 08-18

 昭和に入って、ようやく近代的な排水事業がスタートしました。昭和32年に機械による排水がスタートし、ついに越後平野は乾田化して穀倉地帯となったのです。
 今回はその後を偲ぶツアーです。

 スタート地点は鳥屋野潟。新潟駅の南にある潟です。向こうに見えるのは「ビッグスワンスタジアム」です。
 この鳥屋野潟、国土交通省での扱いは「一級河川」。周辺の水がここに溜まり、栗ノ木川を経て信濃川に注ぐのですが、すり鉢状の地形になっていますから、なかなか排水されないのです。
 ここの水位が日本海よりも高くなったりするので、周辺の水もなかなかひかず、結果として地域全体が湿地帯になるというわけ。
2014 08 新潟干拓編1

 その辺の詳しいことを知るために、まずは新潟市歴史博物館へ。
 ここには旧新潟税関もあります。
2014 08 新潟干拓編2

  ここで昭和30年代の地図を見せてもらって、それから向かったのはこちら。
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 鳥屋野潟から栗ノ木川に合流するあたりにある、旧「栗ノ木排水機場」です。

 鳥屋野潟のあたりは「亀田郷」といいます。ここでは地域の人々が「亀田郷土地改良区」という組織を作り、農地改良に取り組みました。
2014 08 新潟干拓編7
 こちらがその改良区の本部です。お話を伺いにあがりたかったのですが、お盆でお休みです。残念。

 改良区の最大の仕事は、一帯の排水。昭和23年に国営事業で栗ノ木排水機場が完成し、鳥屋野潟の水を常時汲み上げて排水するようになります。亀田郷の乾田化のスタートでした。排水路なども整備され、昭和32年には一帯が乾田化、亀田郷は一転して美田が広がる穀倉地帯となったのです。

 栗ノ木排水機場は地震でダメージを受け、現在は痕跡しか残っていません。
2014 08 新潟干拓編5
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 しかし、この栗ノ木排水機場こそが信濃川の分水路とともに現在の新潟の発展の基礎を築いた産業遺産です。大事に残してほしいと思います。

 現在、鳥屋野潟からの排水は、栗ノ木川のほうではなく、反対側の信濃川との合流点で行っています。
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 親松排水機場です。この他にも多くの揚排水機場があり、亀田郷土地改良区が管理運営し、連動して一帯の水利管理を行っています。
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 なお、有名な亀田製菓は、ここ亀田郷にあります。


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そういえば、もう1歳です 

 すっかりアップをしてなかったので忘れてましたが、ちびも1歳になりました。いや、7月ですけど。
 まだ歩きませんが、意思表示も上手になり、こちらの言うこともだいぶわかってきたようです。

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CBくん 6ヶ月点検 

2015-08-06

 仕事帰りに6ヶ月点検。正式にはメンテナンスパックの30ヶ月点検ですね。このあとロングツーリングが控えているので、早めに行きました。
 走行距離は24000キロ。機関好調ですが、カムシャフトカバーからオイルの滲みがありました。

 エンジンオイルは交換にはまだ早いのですが、定期メンテと一緒にやると工賃が割引なので、フィルタともども交換しました。純正G3です。


chinafree
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Author:japantourist
3児の父、リターンライダー。歴史マニアにして、レガシィB4を乗り回し、天文書を片手に星空を眺める。
横浜FCを追いかけ、サッカーボールを蹴っ飛ばす。
ホントは何が好きなんでしょうか・・・

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