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裁判員裁判 死刑判決に思うこと 

 前にも裁判員制度について述べたことがあったと思いますが、昨日の石巻3人殺傷事件での、少年への死刑判決とその報道について思うところがありましたので、改めて書きたいと思います。報道については、特に読売新聞を読んでの感想です

 今回、少年審判でありながら、そして裁判員裁判のなかで死刑判決が出たということで、大きく扱われることになりました。
 その中で、特に強調されたのは、裁判員に課せられた死刑判決の「重さ」だったように思います。特に裁判員を務めた30代の男性が顔写真の公表を認めた上で記者会見を行ったため、今朝の読売新聞では、その方の発言が小見出しとして1面の中央に配されることになりました。

 おそらくこの方は誠実に事件と向き合い、必死に考えながら裁判員を務めたことでしょう。その真摯さに最大の敬意を表したいと思います。
 紙面では「悩み続ける」「正直つらい」という見出しがあり、発言として

>「正直怖かった。どんなに悩んで結論を出しても、被告や被害者側から納得いかない思いを抱かれる。一生悩み続けるんだろうなと思った」

>「死刑がこんなに重いとは思わなかった。日本の法制度の問題かもしれないが、正直つらい。今日を迎えるのが嫌でしょうがなかった」

 というコメントが載せられています。多分、同じ立場なら私もこのような重さに苦しむことでしょう。人を裁くとは本来そいう重さがあるもので、死刑だから重いというより、おそらくどんな刑罰にも同じ重さがあると思います。懲役1年でも実刑なら実際にその人は拘束され、社会的な立場を失うわけですから。たとえ仲の良い友人でも、だから助けてあげてというわけにはいかない。「泣いて馬謖を斬る」ではないですが、それ程に法とは重いものなのです。

 逆に言えばそういう重さに耐えてでも刑罰を課すことで、社会の秩序を維持しているのが法治国家だと思わねばなりません。法によって秩序を保ち、その秩序に守られて生きる。従って、法を犯せば相応の罰があり、神が現実世界に存在しない以上、その社会に暮らす人々がその罰を決め、執行しなければならない。
 昔は私的な王権がありましたから、支配者が自分の作った秩序を守るためにそれをしていたのですが、民主主義国家では我々の社会のために、我々自身でそれをしなければならないのです。
 
 といって、巨大化した国家ですべての国民が参加してそれを行うわけにはいきません。直接民主制が不可能であるのと同じことです。
 そこでほとんどの近代国家では統治機構の中に「司法」という権力を作り、「裁く」という機能を委託しているわけです。

 しかし、どうも我々日本人は「司法」という機能に依存しすぎているのではないでしょうか(まぁ、システムとして介入しにくいのですが)。
 「立法」に関しては選挙、「行政」に関しては世論ということで、国民は関わっていくと中学校の教科書などでは教えられます。「司法」に対しては最高裁判所裁判官国民審査しか関わることが出来ませんでした。その国民審査も制度としてはすっかり死んでしまっていて、ちゃんと考えている人も少ないだろうし、罷免されたことも一度としてありません。
 つまり制度上、裁判に関わることがないんですね。そのせいか、裁判は自分たちでやるものではないという感覚がある。「法律を知らないから」という言葉の元、裁判員制度に強いアレルギー反応が起きたのもわかります。

 かくて、裁判官と検察、弁護士が進める裁判に関わることを極力嫌がる国民性が育ち、「裁判に訴える」ことが脅し文句となるまでになりました(交通事故の時、実際に私もそう脅されたことがあります)。

 かといって、判決機関・仲裁機関としての信頼はあるわけで、司法権を委ねることに異論を唱える人はいないのです。ただ、不満があれば文句・批判が高まります。それでも多くの人が裁判を受けることに異論を挟むようなことはありません。
 おそらくそれは裁判所という抽象的な「機関」が裁判をしているという認識があるからで、特定の裁判官の個性が埋没しているからでしょう。裁判のTVなどでシーンは見たことがあっても、そこにいる裁判官は人間として見られず、厳粛なる空間の支配者として存在しているのです。
 「裁判官」という抽象的存在が裁判を司っているからこそ、我々はすべてを委ねることができるという側面があります。そもそも人間がいると思っていないのですから。

 しかし、実際には裁判官も人間です。法の僕として「個」の感情ではなく、法に基づく存在として訓練されていますが、それでもこの事件のように人間として判断せざるをえないことがあるはずです。多くの裁判がある以上、オートメーション的に進めてしまうこともあるでしょうが、どんな裁判官も何度も「個」の人間性が揺さぶられるような経験をしていることでしょう。お話を聞く機会があって、そのようなことを伺ったことがあります。
 今、我々はそういう思いをすることも裁判官に委ねてしまっています。死刑だろうと、終身刑だろうと、決断するのは「法」ではなく、人間なのです。同じ日常生活を送る同じ日本人なのです。
 裁判員が語る「重さ」「怖さ」「悩み」は、同じ人間・日本人である裁判官たちが日常的に感じているものなのではないでしょうか。

 社会秩序の維持のために裁判というものが必要で、私たちは警察や裁判の抑止力によって安楽な日常生活を送っています。世界でも有数の治安の良さは(悪化しているとはいうものの)、国民性もありますが、この抑止力によるところが大きい。
 本来社会秩序は、そこに住む人々全てで守らねばならないものです。それがその社会に暮らし、利益を享受する人々の責任です。
 たとえば地域の安全は警察だけでなく、地域の人が見回りをしたりする。もちろん大変なのですが、地域が荒れるよりはいい。警察に委ねるばかりでは実はなんともならないのです。
 
 それを国家に敷衍してみればいいことです。秩序の維持や社会正義の実現を裁判官だけに委ねていていいのでしょうか。実際には我々の豊かな社会は「重さ」「怖さ」「悩み」を裁判官に丸投げすることで保たれているのです。
 彼らが人を裁く辛さを背負っているからこそ、犯罪者に対して「刑務所にぶち込んどけ」「なんで執行猶予付くの!?」などと言っていられる。更生の問題などを考えながら、悩みに悩んでそれを決めているのは裁判官なのに。

 今の日本は、無責任社会になっていて、社会の平穏を維持する努力を怠っています。責任は教育機関や警察に委ねてしまっている。本来なら、国民一人ひとりがそれを頑張らなくてはいけないのですが。
 裁判も、やはり我々ががんばらなきゃいけないのではないでしょうか。裁判官が頼りない、というのではなく、彼らに委ねてきた重さを自分たちもともに背負い、社会を守らなければいけない。
 裁判員を務めることは、重く辛いことかも知れません。逆に言えば、社会の平穏を守ることは、その重さ辛さと背中合わせなのです。すべての人がそれを感じなければいけません。
 新聞はその重さを裁判員に被せることを暗に批判しているように思います。私は、それは違うと思います。むしろ、多くの人がその重さを味わうべきです。それが社会の重さでもあるのですから。

 さらにいえば、少年審判とはいえ、被告側への思いが強いような報道になっているようにも思うのですが、どうでしょうか。もっとも辛い思いをしている被害者とその遺族が守られてこその社会秩序なのではないでしょうか。彼らのために、そしてこれ以上同じような人が生まれないようにするために、我々が努力をしなければならない。裁判員として裁判に参加することは、社会を守る我々の義務と思うべきではないでしょうか。

 我々は今回の事件・裁判を通じて、社会のため、被害者の遺族のためには未成年といえども死刑を課さなくてはならないことを経験し、その重さを記者会見に出てくださった男性のおかげで理解することが出来ました。
 ですから、我々は裁判員の方たちの思いを受けて、加害者の更生以上に、そういうことが起きない社会の構築することが我々の責任だと思います。

 舌足らずですが、こんなところで。

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japantourist

Author:japantourist
3児の父、リターンライダー。歴史マニアにして、レガシィB4を乗り回し、天文書を片手に星空を眺める。
横浜FCを追いかけ、サッカーボールを蹴っ飛ばす。
ホントは何が好きなんでしょうか・・・

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