FC2ブログ
≪ 2021 05   - - 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 - - -  2021 07 ≫
*admin*entry*file*plugin

郡内ツアー① 岩殿山城 

 歴史を学んでいると、大勢の人物の生涯に触れることになります。それが著名な人物であれば、伝記などで生まれてから死ぬまでを知ることができます。
 しかし、歴史上の人物というのはそれこそ星の数ほどいるわけで、ある人物に一瞬だけ関わって、そのシーンだけ登場して、そして消えてしまう人も多い。
 フィクションであれば、そのシーンのためだけに人物が創作されるわけですが、歴史上の人物となるとそうはいかない。親もいて、子もいて、幼少時代からの創作ではない実際の人生がある。様々な行動の中に、思惑があり、決意があり、

 戦国時代は大勢の「戦国武将」が登場します。人気のある時代だけに、家臣にも有名な人物が多い。しかし、優れた家臣でもその武将の「機能」として登場することが多く、その人生を語られることは少ない。人物についても「勇猛な」とか「知勇に優れ」という機能だけが説明されるに過ぎません。

 武田信玄は典型的な戦国武将として、ここで説明の必要のないほど知られています。家臣についても、著名人が多い。
 謀臣山本勘助に始まり、猛将山県昌景、「甲陽軍鑑」の作者に擬せられた高坂昌信(春日虎綱)、馬場信春、内藤昌豊、真田幸隆などなど。それぞれ活躍の機会もあり、武田信玄の人生があるシーンを迎えるたびに登場し、活躍します。逆に言えば、そのシーン以外では登場することもありません。

 信玄の家臣に小山田信茂(1545~82)という人物がいます。先の重臣たちに比べ、やや世代が若く、信玄より18歳年少、次代の勝頼の7歳年長です。信玄在世中から頭角をあらわしていますが、注目度は低く、大河ドラマ「武田信玄」には登場していません。
 唯一注目されるシーンは、武田家滅亡時。穴山信君が謀反し、織田信忠による甲斐侵攻を許した勝頼は、新府城を捨て落ち延びようとします。その際に小山田信茂が甲斐東部の所領に落ちることを勧めました。勝頼はそれに従いますが、笹子峠の麓まで来たときに信茂が離反したことを知ります。勝頼は東に行くのを諦め、そこから北上しようとしますが、滝川一益の追撃により、ついに天目山で自刃しました。
 そう、つまり信茂は穴山信君とともに斜陽の武田勝頼を見限り、その滅亡を早めた人物とされるのです。
 信茂は織田信長に投降しますが、「不忠である」として首を刎ねます。本能寺の変の時に一気に襲われて死んだ穴山信君とともに、「裏切り者の末路」としても話が良く出来ているので、信茂に貼られた「裏切り者」のレッテルは完全にこびりついてしまっています。

 しかし、ちょっと調べてみると信茂はタダモノではない。郡内地方を所領とする重臣で、川中島以来数々の戦いに参陣した歴戦の勇将であり、三方ヶ原の戦いでは最大級の戦功を挙げ、長篠の戦いでも劣勢の中最前線で戦い続けて戦線をなんとか維持しています。山県昌景に「文武相調いたる」と評されるなど、武田家を代表する人物であったようです。最後の「裏切り」のために汚名を被り続けているのですが、果たしてそれだけの人物だったのでしょうか。
 
 私の中でなんとはなく信茂についての関心が高まってきたので、ぶらりと信茂の足跡を訪ねることにしました。



▼続きを読む▼

この記事へのコメント

この記事へコメントする














chinafree
(△お好みの文字サイズになるまでクリックしてください)

japantourist

Author:japantourist
3児の父、リターンライダー。歴史マニアにして、レガシィB4を乗り回し、天文書を片手に星空を眺める。
横浜FCを追いかけ、サッカーボールを蹴っ飛ばす。
ホントは何が好きなんでしょうか・・・