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郡内ツアー③ 武田勝頼と小山田信茂の最期 

 天正10年3月3日、新府城に火を放った勝頼は翌4日には勝沼に至ります。信茂は母を人質に差し出し、一足早く郡内に戻りました。
 勝頼は郡内に入るために笹子峠の麓まで辿り着きますが、この時点で多くの家臣が逃亡していました。ここで信茂の迎えを待ちます。
 しかし、東下する勝頼を追う織田信忠の侵攻速度は思いのほか速く、6日には甲府を占領、残党狩りを行い、信玄の弟信廉や子の一条信龍らが斬られました。

 ここで空白の数日間。

 9日、信茂の家人小山田八左衛門が勝頼のもとにやって来ましたが、彼は信茂の母を連れだして勝頼のもとを去ります。この時点で信茂は離反を決意していたことになります。
 翌日10には信茂の離反がはっきりし、勝頼は行き場を失いました。やむなく北上して天目山に向かいます。勝頼にしてみれば、あとは死に場所を探すということでしょう。

 信茂はこの間、何を考えていたのでしょうか。
 先にも書いたとおり、ギリギリまで引っ張った裏切りは、彼なりの迷いなのでしょう。信長に限らず、早くに降ったものは重用され、遅くに降るものは討たれるというのが、洋の東西を問わず法則的なものです。おそらく信茂はそれもわかっていた。
 信茂の計算を狂わせたのは、信忠の進軍の速さだったのではないでしょうか。岩殿山で防備を固めるだけでなく、北条氏との連絡もつけなければならない。そんな時間がなくなってしまった。この状態で勝頼を迎えても、郡内はあっというまに信忠軍に蹂躙されてしまうしかありません。

 郡内は甲斐国内とはいえ、別天地。小山田氏にとって父祖代々の地です。これが織田勢によって破壊されるのは、信茂には耐え難かったのではないか。
 ふるさとを愛する、というような現代的な感覚とは違います。しかし、「一所懸命」という感覚は生きていますし、繰り返し書いている通り元は独立した国人だったわけですから、武田氏を支えきれない状況になって以上、あとは郡内を守るしかない、と考えたのではないでしょうか。

 勝頼が、信茂の離反を知って、どのように反応したかは分かりません。天目山にむけて山中にわけいっていきます。


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japantourist

Author:japantourist
3児の父、リターンライダー。歴史マニアにして、レガシィB4を乗り回し、天文書を片手に星空を眺める。
横浜FCを追いかけ、サッカーボールを蹴っ飛ばす。
ホントは何が好きなんでしょうか・・・