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長篠ツアー 古戦場を歩く 

 先日、新東名について書きましたが、今回は目的地である長篠古戦場について。
 私が訪れた4月29日は長篠古戦場にある「設楽原歴史資料館」の資料館まつりというイベントがあって、火縄銃の演武が見られる日でした。家族は熊本にいるし、これは良いチャンスということで、新東名を飛ばして長篠に行ったのです。

 朝6時に出発したので、渋滞にも合わず、スムーズに長篠に到着。それでも250キロほどありますから、資料館についたのは9時頃でした。
長篠ツアー 設楽原歴史資料館

 火縄銃の演武は11時過ぎということなので、受付で地図をもらい、まずは古戦場巡り。

 長篠の合戦は、武田勝頼が長篠城を奪いかえそうとしたことが始まります。三河進出の橋頭堡として期待された長篠城は信玄が病死した直後に家康が攻略していました。城主は奥平貞昌。山家三方衆の一家で、奥三河に蟠踞する土豪です。武田・徳川の間で向背常なかった家ですが、信玄死後頽勢にある武田家を見限り、徳川家についていました。家康はこの貞昌に攻略した長篠城に入れたのです。

 勝頼は奪還を目指し、これを包囲します。城方は500余の兵力ながら頑強に抵抗しました。こういう場合、攻められた方としては味方の信頼を繋ぎ止めるためにも必ず後詰をしなければなりません。
 特に、これからも武田家との抗争が続くであろう徳川家康としては、これは重要な問題です。ここで奥平貞昌を見捨てては、土豪たちが再び武田家に奔ってしまいます。

 同じく、徳川家康の同盟者たる織田信長も、家康の援助はしなければなりません。とはいえ、すでに畿内を制圧しつつある信長と、武田家との力の差は歴然としてきています。無理に戦わなくても経済力で圧倒的な差がありますから、いずれは勝頼を滅ぼせる。ここで主力を連れた勝頼と正面衝突して損害を出すのはちと勿体ない。

 このような温度差がそれぞれにあり、思惑を秘めながら長篠城周辺に三者が集まってきたのです。

 信長は大兵を率いてきましたから、それを見て勝頼が退いてくれれば一番いい。仮に戦っても損害を少なくする必要があるので、長篠城から西方10キロほど西に本陣を置き、その東にある南北に長い平地に布陣しました。この平地は連吾川という細流が南北に貫流し、それを掘りに見立てた強靭な野戦築城を施しました。いわゆる馬防柵を築いたのが、この連吾川沿いです。
 これほど距離が離れたところに野戦築城するというのは、自分から出戦するつもりはあまりなかったということでしょう。さらにいえば、戦略的には負けることはなくても、局面の戦いでは、戦術的な敗北の可能せもある以上、無理はできないところです。

 資料館から坂を下ると、すぐに連吾川です。
長篠ツアー 連吾川

 ちょうど徳川勢が布陣したあたりになるのでしょうか、左手が織田・徳川勢の陣地です。当時からあまり地形も変わってなさそうですね。左手奥には再現された馬防柵が見えます。


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japantourist

Author:japantourist
3児の父、リターンライダー。歴史マニアにして、レガシィB4を乗り回し、天文書を片手に星空を眺める。
横浜FCを追いかけ、サッカーボールを蹴っ飛ばす。
ホントは何が好きなんでしょうか・・・