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新潟ツアー 揚北衆編 

 新潟ツアー2つ目のテーマは、「揚北衆」です。
 新潟県(旧越後国)の戦国大名といえば上杉謙信です。かなりの知名度だと思いますが、その謙信や後継者の景勝が越後の統治に非常に苦労したとこは意外に知られていません。
 では、その苦労した地域はどこなのか。地図を見てみましょう。
2015 揚北衆24
 左側の太い赤丸が上杉謙信の拠点、春日山城や直江津がある上越です。近世に入って平野部に高田城が築かれました。現在は上越市となっていますね。
 こうやって新潟県全体から見ると、かなり西方に偏って位置に本拠を置いていることが分かります。

 中越と言われる魚沼周辺は、要衝の地坂戸城を謙信の姉婿に当たる長尾政景が統治しました。その子長尾顕景が謙信の養子に入り、近世米沢藩初代藩主の景勝になっていますので、ここは準本拠といえるでしょう。景勝の腹心直江兼続は坂戸城主になっています。

 残るは東北方、下越です。現在の行政地名で言えば、新発田市・村上市・胎内市・阿賀野市といったあたりでしょうか。地図中は少し細めの赤線で囲んだあたりです。
 見ての通り、上越から遠いですね。春日山城から新発田まで約150キロほど。この距離は東京から富士市よりも遠いのです。

 この下越地域は、阿賀川より北に位置する地域なので、阿賀北、揚北などと呼ばれました(読みはどちらも「あがきた」)。耕地も広く、古代には渟足柵や磐舟柵が築かれるなど、早くから開けていました。
 ここに割拠するのは、鎌倉時代からここに封じられていた国人たちで、ひとくくりに「揚北衆」と呼ばれました。独立独歩の気風が強く、長尾家に従属しつつも隷属はしない、という集団でした。
 今回は、そんな揚北衆を代表する三人の故地を訪れました。実際にはあまり時間がなく、お城を訪ねるのみになってしまいましたが。

 まずは新発田城です。新潟は港湾都市で、河口に開けた町なので、国人の拠点にはなっていません。この周辺で重きをなしていたのは、揚北衆佐々木党の一族、新発田氏です。その新発田氏の拠点であり、その後は溝口氏が近世大名として治めました。

2015 揚北衆1
 現在の新発田城は、遺構が一部残っていますが、すべて近世のものです。最初に新発田城を眺めてみましょう。

2015 揚北衆2
 こちらは二ノ丸隅櫓。現存遺構ですが、実際には鉄砲櫓の位置に移築されています。塗籠で、破風などはありませんが、切込み接ぎの端正な石垣と相まって、秀麗な姿ですね。

2015 揚北衆5
 こちらも現存遺構の表門。海鼠塀が美しいですね。

 ただこの城、本丸などのじゅうような部分は、自衛隊の第30普通科連隊の駐屯地となっており、見ることができません。維新後、多くの城跡が陸軍の駐屯地となりましたが、それが今でも続いているというわけです。

2015 揚北衆4
 復元された本丸辰巳櫓から見下ろすと、その様子が分かります。現在の新発田城の代名詞とも言える復元三階櫓(実質的に天守だった)も駐屯地内にあり、見学できません。
 しょうがないとはいえ、お城全体の遺構を観察できないのは残念です。

2015 揚北衆3
 表門をくぐると、銅像が。新発田市民も知っているのかどうか。近世新発田藩の初代藩主、溝口秀勝です。戦国史に詳しい人でもあまり知らないですかね。
 丹羽長秀の家臣で、その後秀吉の直臣となり、新発田6万石に封ぜられました。関ヶ原では東軍につき、所領安堵。明治まで存続しました。前のエントリで書いたとおり、湿地帯だったこの地域ですが、溝口氏は代々積極的に新田開発を進め、実高が数十万石に上ったそうです。現在の新発田市の基礎を築いた人物ですね。赤穂浪士の堀部安兵衛ばかりが目立っていますが、もっと注目してほしいです。

 溝口氏四代目の重雄は新発田藩の藩政を確立させた名君で、文事にも秀でていました。彼が残した庭園が、「清水園」といい、現存しています。回遊式の庭園で、非常に美しい。素晴らしいお庭でした。
2015 揚北衆6

 清水園の隣には足軽長屋が残っており、こちらも見学できます。間取りとか非常に興味深いですね。
2015 揚北衆7

 さて、本題の揚北衆、新発田氏です。景勝の時の当主が新発田重家。剛勇で知られ、景勝が景虎(北条氏からの入嗣)と謙信の後継者を争った「御館の乱」では景勝について縦横無尽の活躍をしました。
 しかし十分な恩賞が得られず、景勝の措置に不満を持ち、天正9年(1581)についに反旗を翻します。新潟津を押さえて経済基盤を強化し、蘆名氏や伊達氏の援助を受け、景勝の軍勢をしばしば撃退するほどでした。その反乱はなんと7年にも及びます。
 しかし秀吉の助勢を得た景勝により、徐々に勢いを失い、ついに天正15年(1587)に新発田城から打って出て討ち死にを遂げました。享年41。
 勝者であり、直江兼続の存在もあって英雄視される上杉景勝ですが、御館の乱などで家督継承後も所領の支配に苦しんでいました。その景勝を最も苦しめたのが重家なのです。「反乱」と書きましたが、実際には国人が頼みにならない主君を見限ったということ。重家ほどの人物に見限られたのなら、景勝も兼続も大したことないな、なんて思います。逆に重家はもっと顕彰に値するのではないかと。
 どうしても歴史は勝者の目線で語られます。運がいいと真田信繁のように「美しい敗者」としてヒーローとなり得ますが、多くは「謀反」という言葉で切って捨てられ、歴史の狭間に埋没していきます。

 しかし、そんな「敗者」たちにも確たる人生があり、勝者の目線では汲み取れない実績や評価があるものです。わかりやすい例で言えば、石田三成が現在も地元で名君として仰がれているような。
 歴史ブームもいいですが、私はそういう「敗者」や目立たない人たち(溝口秀勝のような)にも目も向けたいのです。できれば、その故地に行き、その人物に寄り添ってみたい。歴史を見るなら、そこまで見ないと片手落ちではないかと思うのですよ。
 だから、溝口秀勝の銅像に会えて嬉しいし、新発田重家ももっと見つめたい。

 清水園をでて寺町を歩いていると、ちょうどお盆ということもあって、お墓参りの人で賑わっていました。屋台も出て、日本らしい良い光景だな、と思っていたら、
2015 揚北衆23
 新発田重家の坐像がありました。ちゃんと顕彰されているではないですか!

2015 揚北衆8
 ここは溝口秀勝が新発田重家の菩提を弔った福勝寺というお寺です。お墓も大事にされていて、温かい。嬉しくなってお参りしていると、ちょっと奇異な目で見られましたが…。
 でも、これがその地に行くことの幸せですね。重家ももって瞑すべし、です。

 のこり2人は【続きを読む】で。


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japantourist

Author:japantourist
3児の父、リターンライダー。歴史マニアにして、レガシィB4を乗り回し、天文書を片手に星空を眺める。
横浜FCを追いかけ、サッカーボールを蹴っ飛ばす。
ホントは何が好きなんでしょうか・・・

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