大川小学校を残すべきか残さざるべきか
admin≫
2015/12/05 00:49:43
2015/12/05 00:49:43
大川小保存、意見割れる=震災遺構アンケート―宮城県石巻市
12月2日(水)21時50分 時事通信
東日本大震災の津波で児童ら84人が犠牲となった大川小学校の校舎をめぐり、宮城県石巻市は2日、震災遺構として保存すべきかを尋ねた市民アンケートの結果を公表した。
小学校の地元・大川、別の被災校舎を抱える門脇の両地区以外では「保存」が6割だったが、大川地区は「解体」が過半数を占め、意見が割れた。
アンケート結果は、市が同日開いた地元住民団体との会合で報告。大川、門脇両地区以外では、全部または一部の「保存」が60%、「解体」が37%となった。これに対し、大川地区は「保存」が45%、「解体」が54%だった。
亀山紘市長は会合後、記者団に「結果は拮抗(きっこう)している。次世代を担う子供の声も聞きながら判断していくことが必要だ」と指摘。大川小学校の卒業生らの意見を別途、聞く機会を設ける考えを示した。
門脇地区の被災校舎についても同様のアンケートが行われたが、意見は二分。市は両校舎の保存の是非に関し、今年度内に結論を出す方針だ。
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2013年2月、初めて訪れた時の大川小学校です。
震災から2年がたとうとしていましたが、ここでは復興という文字を思い出すこともできませんでした。ただ時が止まったまま、そこにありました。
亡くなった方々を思うと、今も胸が締め付けられます。
今年、3月に行ったのが、4回めで、私には今のところ最後です。三陸に行くたびに、できるだけ慰霊に行こうと考えていますが、スケジュールが難しい時もあって、今年の夏と秋はいけませんでした。

写真右奥の位置に祭壇ができていますが、それ以外には変化を殆ど感じられませんでした。
そのままになっている教室表示や、風に揺れるカーテン。冷たい風がなぜか寒さとしては感じられず、慰霊に来られていた多くの方も一様に、悲しみを感じさせないほどに悲しい、としか言いようのない表情で、黙念と祈りを捧げます。4年という歳月は、ここにはなかったかのようでした。
娘も同じ小学生になって、初めてここに来ました。かけがいのない命を失った子どもたちの未来を、少しでも背負って欲しい。そんな親の願いを知ってか知らずか、小さい体で冷たい風を受け止めていました。
周辺の集落は全て失われています。津波は木造の住宅などは容赦なく押し流しましたし、かろうじて残った建物もすぐに撤去されたのでしょう。
学校らしく頑丈に作られた校舎は、その頑丈さ故にその日の悲しみを前身で語り続けています。
この校舎を残すべきか残さざるべきか。私には意見を言える資格はありません。南三陸の防災対策庁舎もそうですが、あまりにも多くの人の思いを受けすぎています。
残したい思い。もう見たくない、という思い。
大川地区の方々が、わずかながらに解体が多かったというのが、分かる気がします。
どんな思いがあろうとも、人は前に、未来に進まなくてはなりません。
石巻市が、そのための最善の選択を、誠意ある決定をされることを信じ、見守るのみです。
ただ、私に一つだけ言えることは、もし震災の遺構がなくなったとしても、あの時被災地の方々が背負った悲しみを忘れることは絶対にない、ということです。
私は初めて被災地を回った時、「10年、見続けよう」と決意しました。いや、決意というよりも「見続けなければいけない」という責任感のようなものです。
しかし、今では終生見守り、支え、ともに歩むということが、もう自分の中で当たり前になっています。
願わくば、大川地区の方々が元気に前を向いて歩ける、そんな結論になってもらいたいものです。
12月2日(水)21時50分 時事通信
東日本大震災の津波で児童ら84人が犠牲となった大川小学校の校舎をめぐり、宮城県石巻市は2日、震災遺構として保存すべきかを尋ねた市民アンケートの結果を公表した。
小学校の地元・大川、別の被災校舎を抱える門脇の両地区以外では「保存」が6割だったが、大川地区は「解体」が過半数を占め、意見が割れた。
アンケート結果は、市が同日開いた地元住民団体との会合で報告。大川、門脇両地区以外では、全部または一部の「保存」が60%、「解体」が37%となった。これに対し、大川地区は「保存」が45%、「解体」が54%だった。
亀山紘市長は会合後、記者団に「結果は拮抗(きっこう)している。次世代を担う子供の声も聞きながら判断していくことが必要だ」と指摘。大川小学校の卒業生らの意見を別途、聞く機会を設ける考えを示した。
門脇地区の被災校舎についても同様のアンケートが行われたが、意見は二分。市は両校舎の保存の是非に関し、今年度内に結論を出す方針だ。
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2013年2月、初めて訪れた時の大川小学校です。
震災から2年がたとうとしていましたが、ここでは復興という文字を思い出すこともできませんでした。ただ時が止まったまま、そこにありました。
亡くなった方々を思うと、今も胸が締め付けられます。
今年、3月に行ったのが、4回めで、私には今のところ最後です。三陸に行くたびに、できるだけ慰霊に行こうと考えていますが、スケジュールが難しい時もあって、今年の夏と秋はいけませんでした。

写真右奥の位置に祭壇ができていますが、それ以外には変化を殆ど感じられませんでした。
そのままになっている教室表示や、風に揺れるカーテン。冷たい風がなぜか寒さとしては感じられず、慰霊に来られていた多くの方も一様に、悲しみを感じさせないほどに悲しい、としか言いようのない表情で、黙念と祈りを捧げます。4年という歳月は、ここにはなかったかのようでした。
娘も同じ小学生になって、初めてここに来ました。かけがいのない命を失った子どもたちの未来を、少しでも背負って欲しい。そんな親の願いを知ってか知らずか、小さい体で冷たい風を受け止めていました。
周辺の集落は全て失われています。津波は木造の住宅などは容赦なく押し流しましたし、かろうじて残った建物もすぐに撤去されたのでしょう。
学校らしく頑丈に作られた校舎は、その頑丈さ故にその日の悲しみを前身で語り続けています。
この校舎を残すべきか残さざるべきか。私には意見を言える資格はありません。南三陸の防災対策庁舎もそうですが、あまりにも多くの人の思いを受けすぎています。
残したい思い。もう見たくない、という思い。
大川地区の方々が、わずかながらに解体が多かったというのが、分かる気がします。
どんな思いがあろうとも、人は前に、未来に進まなくてはなりません。
石巻市が、そのための最善の選択を、誠意ある決定をされることを信じ、見守るのみです。
ただ、私に一つだけ言えることは、もし震災の遺構がなくなったとしても、あの時被災地の方々が背負った悲しみを忘れることは絶対にない、ということです。
私は初めて被災地を回った時、「10年、見続けよう」と決意しました。いや、決意というよりも「見続けなければいけない」という責任感のようなものです。
しかし、今では終生見守り、支え、ともに歩むということが、もう自分の中で当たり前になっています。
願わくば、大川地区の方々が元気に前を向いて歩ける、そんな結論になってもらいたいものです。
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